私の経験

生い立ち

私の父は江戸時代から続く杵屋佐吉という長唄三味線演奏家、母はジャズピアニストだったため、小さい頃から和も洋も関係なく様々な音楽の中で育ちました。
4歳から長唄のお稽古を始めるのですが、当時はお稽古が日曜日だったため友達とも遊べず、逃げてばかり。
中学からは野球に打ち込み、思春期でしょうか…小さい頃から参加していた演奏会も、舞台で唄を唄う事が恥ずかしくなり不参加に。
高校までは目指せ甲子園!と、真っ黒に日焼けし野球に熱中しました。ちなみに大の東京ヤクルトスワローズファンです。
その後はスポーツか音楽、どちらの道に進むかで迷いましたが、やはり音楽や声に関係することを仕事にしたいと、大学では音楽や歌の基礎を学ぶためクラシックの声楽専攻に進み、イタリアやフランス歌曲、オペラアリアなど、西洋音楽を勉強する道に進みました。

人生を変えた体験

私は三大テノールとしても有名なホセ・カレーラスというテノール歌手が今でも最も好きで、当時CDを買い込んで毎日のように聴いていたのですが、18歳の時、歌手への道を進もうか悩んでいた際にサントリーホールでの来日リサイタルがあると知り、当時学生には手の届かない30000円のチケットを母親に頼み込んで買ってもらい、聴きに行きました。
カレーラスの歌う歌詞は外国語ですから全部の意味は分からないのですが、内容は分からなくても聴いている内に引き込まれ、感動して涙が出るのではなく、聴き終わって気づくと「え?どうして自分は泣いてるの?なんで涙が出るの?」と知らずに涙が溢れ出てきて、拍手もできないほど。
心の奥底、魂を揺さぶられた、一生忘れることのできない体験です。
本物の音楽の力、人の声の持つ無限の力を感じ、その瞬間私はカレーラスのようなプロの歌手になりたいと決めました。

なぜ長唄の道に?

今でもオペラやミュージカルは大好きで、その道に進むことも考えました。
進路には人生で一番悩みましたが、当時外国の音楽や文化を学べば学ぶほど、灯台下暗しというように、自分の国の音楽や文化を何も知らない、ということに気付きました。
小さい頃はやらされていた長唄ですが、視野を広げたことで足元にあった日本の音楽の魅力にも気付き、一から長唄の勉強をしたいと改めて師匠に入門し、下積み修行を経て、現在に至っています。

下積み修行〜プロデビューへ

下積み修行はいわゆるプロになる前の研修期間。
師匠のカバン持ちや着替えのお手伝い、楽屋の草履を揃えたり、舞台で使う譜面台を並べたりと、仕事の流れや気遣いを覚えるのですが、一番の基本の教えは、人の目を見てキチンと挨拶をすること。
そうして少しずつ先輩方にも名前を覚えてもらい、舞台の末席にお声掛けいただくようになっていきました。

その内に「ちょっと唄ってごらん」と短いソロパートを任されるようになり、上手く唄えるとそのソロパートが少しずつ長く、多くなり、時には緊張での大失敗もありましたが、一つ一つの舞台経験の積み重ねによって、今の自分へと成長させていただきました。

お陰さま

人生の主役である自分が光であるならば、そこには必ず陰ができる。その陰に「御」と「様」をつけて「お陰さま」。
大切にしている言葉です。

今の自分があるのはいつも応援して下さるお客様、大切な生徒さんたち、何もできない修行中からお声掛け下さった先輩方、切磋琢磨し合える仲間たち、支えてくれる家族、多くの方の「お陰さま」です。

仲野真世先生

長唄をお教えするにあたり、私が最も影響を受けたピアノの先生をご紹介させて頂きます。

私が高校~大学卒業までピアノを教わっていた仲野先生は、プロとしての技術や心構えはもちろん、進路に悩んでいた時には「今日はレッスンやめましょう」と私の話に何時間も耳を傾け、さらには「お腹が空いたでしょう?」とご飯まで用意して下さいました。

今の自分があるのは、どんな時でも仲野先生が本気で向き合って下さったお陰さまです。

その数年後、長唄教室を開いた私のもとに16歳の男の子が三味線を習いにきました。
彼はいつも着物を着ていたことで同世代からは稀有な目で見られてしまい、学校にも行かなくなっていました。
私は仲野先生が自分を全て受け入れてくれた経験から、将来呉服屋さんになるかもしれないと、彼の好きな事を全面的に応援しました。すると少しずつ笑顔が増えていき、三味線の腕もみるみる上達。
現在、彼は呉服屋さんではなくお医者さんとして活躍中なのですが、
「先生、夢ができた。人の役に立ちたい」
と輝かせてくれたあの目を、
私は一生忘れることはありません。

長唄を学ぶことは唄や三味線の技術を学ぶだけではなく、音楽を通して心を豊かにしていくことだと思います。
私がお世話になった先生からの学びや愛情を大切に想い、生徒さんに注いでまいります。